誤解を招く病名「エコノミークラス症候群」

東京医科歯科大学大学院医歯学総合研究科教授 奈良信雄

10月23日夕刻、震度7を記録する新潟県中越大地震が起きた。不幸にして犠牲になられた方々に心からお悔やみと、一ヶ月近く経ってもなお避難生活を強いられている皆さんにお見舞いを申し上げたい。
大惨事を知ったのは、出張先・鹿児島のタクシー車中であった。ラジオが道路の寸断、広域での停電を繰り返し伝えていた。逃げ遅れた数名の方が土砂崩れや建物の崩壊によって不幸に遭われたということだった。が、翌日から犠牲者の数は増えていった。
1995年1月17日に起こった阪神・淡路大震災では、6432名(総務省消防庁データベースより)の人が犠牲となった。建物の崩壊による圧死のほか、地震で発生した大火災の被害に遭われた方もいた。今回の新潟県中越大震災では、地震直後の犠牲のほか、地震発生数日してからの犠牲者が増えている。
その原因の多くが、エコノミークラス症候群だという。
新潟県中越大震災では、1回目の地震そのものも大きかったが、その後も絶え問なく続く余震が被災者に脅威を与え続けている。テレビでも余震の模様が幾度となく放映されたが、大きく傾く構造物や、人々のおびえ惑う表情が映し出され、大自然の脅威をいみじくも示した。阪神・淡路大震災に遭われた人の話によると、地震のショックは大きく、数年間はちょっとした振動にも恐怖を覚えたそうである。それほどに、大地震の恐怖は体験していない人の想像をはるかにしのぐ。
余震による被害を恐れ、避難所に駐車した自家用車の中で過ごされた人が少なくないという。自動車の中で避難生活を送っていた人が、地震発生数日後に痛ましい結果になられたというのだ。車の性能がよくなり、シートが改良されているとはいえ、何分にも狭い室内だ。長時間シートに腰掛けたままでいたり、あるいは睡眠をとったりしていると、下半身の静脈が圧迫され、心臓に還流するはずの血液が停滞してしまう。その結果、静脈内で血液が凝固し、いわゆる血栓ができる。
そもそも人類は狩猟民族として誕生した。野山を駆け巡ってイノシシやウサギを捕まえて食料にしていた。当然ながら山道につまずいたり切り株を踏みつけたり、ケガをしょっちゅうしていたことだろう。動物や昆虫に咬まれ、ケガをした傷口からタラタラと出血したこともあるに違いない。血液は人間の生命を維持するうえで最も大切なものである。そのかけがえのない血液が失われてしまっては困る。そこで、人間には出血したら即座に出血を止める、すなわち止血という機構が生来ちゃんと備わっているのだ。
環境が整備された今日、どちらかといえば出血よりも、止血過剰による血栓の脅威のほうが大きな問題になってきている。たとえば栄養過剰や運動不足によって動脈硬化が進行し、その結果として脳動脈や心臓の冠動脈に血栓ができやすくなる。揚げ句に脳梗塞や心筋梗塞が発生する。事実、血栓症によるこれらの病気は近年になって急激に増えている。
さて、狭い車中に長時間座っていると、必然的に静脈内に血栓ができやすくなる。動脈の中にできた血栓と違い、その部分の臓器にすぐさま障害を及ぼすことは少ない。だが、たとえば座った姿勢から立ち上がったときのように、姿勢を変化させたりすれば血栓は静脈内を移動する。血栓は静脈の中を駆け巡って心臓を通り、肺に流れ着く。肺の中で血栓が詰まって血管を閉塞してしまえば、呼吸という重大な肺の機能が奪われてしまう。肺梗塞だ。これによって命を奪われているそうだ。
このような病態が当初注目されたのは、海外旅行の飛行機中であった。特に座席の座面や前後の間隔が狭く、窮屈な姿勢を強いられるエコノミークラスで多発した。それゆえ、エコノミークラス症候群という病名が冠せられた。この名称だけからすれば、座席の狭いエコノミークラスだけの病気と誤解されても不思議はない。だが、実際には、ファーストクラスでも同じ状態は起こる。だから、最近では、誤解を招かないようにロング・フライト症候群と呼ばれるようになっている。
だが、ここにも落とし穴があった。飛行機内に限って起こる事故と誤解されたのだ。
この病気はエコノミークラスだけ、飛行機内だけで起こるのではない。飛行機、自動車を問わず、とにかく窮屈な姿勢を長く保ち、血液循環を悪くするような状態だと静脈内で血栓が作られてしまう。特に水分の補給を怠ると、血液が濃縮し血栓ができやすくなる。飛行機内ではトイレを使いたくないために、ご婦人はついつい飲水を我慢しがちになる。これがいけない。被災地でも断水により水洗トイレが使えなくなったと聞く。勢い水を飲むのを控えた人もいただろう。血栓ができやすい状況に輪をかけられたものと思う。
もしこの病気の怖さが正しく伝わっていれば、犠牲を少なくできたのではないか。病名のなした罪が悔やまれる。この症状を起こさないためには、長時間窮屈な姿勢をとらないこと、水分を適宜補うこと。これが大切なポイントである。
同じように、必ずしも名が体を表さない病気は少なくない。たとえばオウム病は、鳥類であるオウムだけの病気かと誤解を招きやすいが、オウム以外のトリも発病する。ペットの鳥から人間に伝染して重症の肺炎にかかる人もいる。狂犬病もそうだ。犬以外の野生動物も罹患する。北アメリカではリスがあちこちの公園にいるが、リスも狂犬病を起こすウイルスを持っていることがある。このことを知らない子供が「かわいい」と思って近づき、感染してしまったケースもある。
災害時には、平常時には予想もつかない事態や病気が起こりかねない。避難をされている方々には、くれぐれも健康管理にご留意いただきたい。また、一刻も早い復興を切に望みたい。

なら・のぶお 医学博士。1950年香川県生まれ。東京医科歯科大学医学部卒業。放射線医学総合研究所、卜ロント大学オンタリオ癌研究所等を経て現職。専門は血液内科学、臨床医育成にも力を注ぐ。

週刊東洋経済2004.11.27