松下村塾は、木造瓦葺き平屋建ての50uほどの小舎で、8畳の講義室・10畳半のひかえの間・1坪の土間部分から成っています。松陰は、身分や階級にとらわれずに門下生として受け入れ、わずか2年半の間ではありましたが、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋、山田顕義、品川弥二郎ら、明治維新の原動力となり、明治新政府に活躍した多くの逸材を育てました。国の史跡に指定されています。以下の3パラグラフは説明の立て看板から引用しています。
国指定史跡 松下村塾 : 所在地 萩市大字椿東字新道 指定年月日 大正11年10月12日 説明 吉田松陰ば安政四年(1857)実家杉家宅地内にあった小屋を改造して八畳の塾舎とし更にその翌年十畳半を増築した。これが規在松下村塾で、松陰二十七才の時のことである。ここで松陰が教育した間は一年であり、実家の幽囚室時代を、通算しても二年半に過ぎない。この短い期間にこの粗末な教室から若い松下村塾グループが有ち、安政の大獄で刑死した師の志を継いで尊攘討幕運動に挺身し明治維新の原動力となつた司志の主な者ぱ激動期に死んで行ったが、生さ残つた者は維新政府中枢に立って新しい日本を指導することになった。 萩市教育委負会
吉田松陰幽囚ノ旧宅:この旧宅は、安政2年(1855〉から数年の問、吉田松陰が幽囚された家で、東側にある3畳半の1室が幽囚室である。松陰は、伊豆下田でアメリカ軍艦による海外渡航に失敗し、江戸伝馬町の牢に捕らえられた。ついで、萩に送られ野山獄に入れられたが、その後、釈放され父杉百合之助預けとなり、幽囚室に謹慎し読書と著述に専念した。そして、近親者や近隣の子弟たちに孟子や武教全書を講じた。 萩市教育委負会
花月楼(かげつろう):茶室「花月楼」は7代藩主毛利重就(しげなり)が、利休の流れを汲む表千家の家元、第7代如心斎の門人、江戸千家の元祖川上不白が献上した花月楼の設計図にもとづいて、安永5年(1776)三田尻(防府市)の別邸内に建築したものである。重就の没後、その寵愛を受けた御茶堂竹田休和が9代藩主斉房から貰い受けて平安古(ひやこ)の自分の屋敷内に移築し、その記念に「花月楼之記」を作った。明治21年(1888),品川弥二郎がこの建物を松本橋のたもとの自宅に保存していたものを昭和34年(1959)に現位置に移築した。江戸時代中期に考案された花月式の茶会を催すことができるよう設計された茶室が、花月楼式の茶室である。 萩市教育委負会
入り口の大きな鳥居から入る。
明治維新発祥の地だそうです。
松下村塾は50uと小さい。
8畳と10畳半の二間です。
控えの間と土間です。
8畳の控えの間です。
10畳半の講義室です。
隣にある松蔭の実家です。
吉田松陰幽囚の旧宅です。
2年間幽閉され読書と著述。
松陰神社の鳥居です。
お参り前に手を浄めて。
神社の本堂です。
本堂の中はこんな風です。
左の狛犬。
右の狛犬。
松陰神社左から入る鳥居です。
茶室・花月楼は7代藩主毛利重就が防府市の別邸内に建築したものを移築。
2005/09/01