この場所は観光バスなど車で行くには問題ないのですが、自転車で行くと心臓破りの坂が続きますので、自転車を押して歩くだけでも大変です。それでも坂はここだけなので我慢して上りましょう。
この高台には、吉田松陰、高杉晋作、吉田稔磨と明治維新の有名どころの墓が並んでいます。また吉田松陰誕生の地となっていますが、コンクリートの低い土台のようなもので仕切られた、本当に誕生の土地だけで建家は何もありません。パンフレット等に良く登場する吉田松陰の銅像も建っています。小高い丘だけあって萩市街が一望出来ます。
この高台を再び松陰神社の方に降りていくと、松下村塾発祥の地とされている玉木文之進旧宅と東京から移転した伊藤博文の別邸があります。
以下はそれぞれの地での説明文です。
吉田松陰の墓は表に「二十一回猛子墓」、裏に「姓吉田氏称寅次郎 安政六年己未十月二十七日 於江戸没 享年三十歳」と刻まれている。百ヶ日忌に遺髪を埋めてたてたものである。墓前には佐瀬(前原)一誠・久坂誠(玄瑞)・品川日牧(弥次郎)・伊藤和卿(博文)・高杉春風(晋作)など17名が寄進して、その名を刻んだ水溜め・花立・燈籠が供えてある。また、この墓所には松蔭の他に、その一族とゆかりの深い人々の墓も立ち並んでいる。
吉田松陰誕生地 : 団子岩と呼ばれる風光明媚な所で、天保元年(1830)に萩藩±杉百合之助の二男としてこの地に生まれ、本名は矩方、通称寅次郎と呼ばれていました。現在は、建物の敷石と松陰産湯の井戸が残っており、東の高台に松陰銅像が建っています。
吉田松陰の銅像 : この銅像は、明治維新100周年を記念して1968(昭和43)年に建立されたものである。松陰先生が弟子の金子重輔を従え、下田沖のペリー艦隊を見つめている姿を彫刻したもので、高さは約8mある。題字は当時の佐藤栄作首相が書き、銅像は萩出身の日展審査員長嶺武四郎が製作している。
玉木文之進旧宅 : 市指定文化財(史跡)指定年月日 昭和39年3月28日 玉木文之進(1810〜76)は、吉田松陰の叔父に当たり、杉家から出て玉木家(大組40石)を継いだ。生まれつき学識に優れ、松蔭の教育にも大きな影響を与えた他、付近の児童を集めて教授し松下村塾と名付けた。この塾の名称は後に久保五郎左右衛門が継ぎ、安政2年(1855)には吉田松陰が継承して、名を天下にあげるに至ったことから、この旧宅は松下村塾の発祥の地といえる。建物は木造茅葺き平屋建てで、8畳の座敷の他4畳の畳部屋・3畳半の玄関・4畳半の板間と土間の台所があり、別に湯殿、便所がある。
伊藤博文旧宅・別邸 : 旧宅は木造茅葺き平屋建て、29坪の小さなもので、萩藩の中間水井武兵衛(のち伊藤直右衛門と改名)の居宅でしたが、安政元年(1854)に博文の父林十蔵が一家をあげて伊藤家に入家し、ここに居住することになりました。国の史跡に指定されています。また別邸は、伊藤博文公が明治40年(1907)に東京府下荏原郡大井村に建てたもので、当地へは往時の面影をよく残す玄関、大広間・離れ座敷の3棟を移築しました。明治時代の宮大工伊藤満作の手によるもので、大広問の鏡天井や離れ座敷の節天井など意匠に優れています。
吉田松陰と高杉晋作の墓標です
吉田松陰の墓
高杉晋作の墓
吉田稔磨の墓
吉田松陰の銅像です。
高杉晋作草庵跡地顕彰碑です。
高台から萩市街を一望出来る
玉木文之進旧宅
伊藤博文の銅像。
伊藤博文別邸は1907年に東京府下荏原郡に建てたものを移築。
廊下の天井は厚さ5cmの一枚杉
2005/09/01