清水寺の縁起 : 音羽山清水寺は、1200余年前、すなわち奈良時代の末、778年の開創になります。
奈良子島寺の延鎮上人が「木津川の北流に清泉を求めてゆけ」との霊夢をうけ、松は緑に、白雲が帯のようにたなびく音羽山麓の滝のほとりにたどり着き、草庵をむすんで永年練行中の行叡居士より観世音菩薩の威神力を祈りこめた霊木を授けられ、千手観音像を彫作して居士の旧庵にまつったのが、当寺のおこりであります。その翌々年、坂上田村麻呂公が、高子妻室の安産のためにと鹿を求めて上山し、清水の源をたずねて延鎮上人に会い、殺生の非を諭され、鹿を弔うて下山し、妻室に上人の説かれたところの清滝の霊験、観世音菩薩の功徳を語り、共に深く観世音に帰依して仏殿を寄進し、ご本尊に十一面千手観音を安置したのであります。その後、上人は坂上公を助け、協力して更に地蔵尊と毘沙門天とを造像してご本尊の両脇士とし、本堂を広く造りかえました。音羽の滝は、清水滾々と数千万年来、音羽の山中より湧出する清泉で、金色水とも延命水ともよばれ、わが国十大名水の筆頭にあげられる。ここより「清水寺」の名がおこったわけであります。
仁王門は清水寺の正門。応仁の乱後、15世紀末に再建され、2003年解体修理。正面10m、側面4.8m、軒高8.5mの、室町時代の特徴を示す堂々たる楼門である。入母屋造り、桧皮葺き(ひわだぶき)。昔ながらの丹塗りで“赤門”と呼ばれる。正面軒下に平安時代の名書家藤原行成の筆と伝える「清水寺」の額を掲げ、両脇間に勇壮な大仁王像を祀る。
西門(さいもん)は1631年再建の優雅な三間一戸の八脚門。単層、切妻造り、桧皮葺き。正面に向拝をつけ、木階に高欄を設けて一見拝殿風に作り、背面には軒唐破風(のきからはふ)を架ける大層珍しい形式になる。
三重塔は平安初期847年創建と伝えられ、現塔は古様式に則って1632年再建。日本最大級の三重塔で高さ31m。1987年解体修理、総丹塗りと共に桃山様式を示す各重横木の極彩色文様を復元した。
鐘楼は1607年再建。2.3トンの重い梵鐘を吊るために六本柱、四方転びの技法を用い、柱に貫(ぬき)を三重に通して組み固めている。梵鐘、現在の鐘は1748年改鋳奉納。
経堂は本堂らと共に1633年再建。名前のとおり仏教の一切経を宝蔵している。正面五間、側面四間の一重、本瓦葺き、入母屋造り。堂内には釈迦三尊像を祀り、もとは講堂でもあった。2000年解体修理落慶。
本堂と舞台―江戸時代初期、国宝。優美な起り反り(むくりそり)曲線を見せる寄棟造り、桧皮葺きの屋根や軒下の蔀戸など、平安時代の宮殿、貴族の邸宅の面影を伝え、四囲の音羽山の翠緑と見事に調和する。1633年再建、正面36m強、側面約30m、棟高18mの大堂で、堂内は巨大な丸柱の列によって外陣(礼堂)と内陣・内々陣に三分され、最奥の内々陣の大須弥壇上の三基の厨子(国宝)内に本尊千手観音と脇侍(わきじ)の地蔵菩薩・毘沙門天を祀る。そして錦雲渓の急崖に約190u、総桧板張りの「舞台」を懸造りにして張り出し、最高12m強の巨大な欅の柱を立て並べて支えている。「清水の舞台から飛ぶ…」の諺(ことわざ)があるが、舞楽などを奉納する正真正銘の「舞台」で、両袖の翼廊は楽舎である。舞台からの眺望は、実に絶景。
仁王門は清水寺の正門。15世紀末再建。入母屋造り。赤門と呼ばれる。
1631年に再建した西門です。
平安初期創建の三重塔です。
1607年に再建された鐘楼です。
京都市内を見下ろします。
一切経を宝蔵している経堂
音羽山の翠緑と見事に調和。
本堂は寛永10年(1633)再建。
本堂と舞台、国宝。
優美な起り反り曲線の寄棟造り
桧皮葺きの屋根や軒下の蔀戸
平安時代の宮殿の面影を伝える
最高12mの巨大な欅の柱で支る
三重塔を見上げる。
2007/03/01