「守礼門」は、首里城外の坊門の一つで、造られたのは1500年代中頃です。 1933年に国宝に指定されたが、沖縄戦で完全に破壊されたため、1958年に復元しました。 琉球王府の行事や祭祀と密着した重要な礼拝門=御嶽(うたき)だったといわれ、 国王が城外に出かける時、旅の安全を祈願したりしたと考えられています。
「守礼門」は、中国の使者、 冊封使を迎えるためのもの。 世界遺産で神への礼拝の門の、 「園比屋武御獄石門」です。
創建は1519年頃といわれますが、 現在のものは戦後復元されたものです。 勧会門は、首里城の正門で、俗に「あまへ御門」といいます。 「あまへ」は、古い言葉で「よろこび」を意味しており、「歓会」はその漢訳です。
「そのひゃんうたきしきもん」 と読みます。 首里城に入る第一の正門、 「勧会門」です。
勧会門は第二尚氏尚真王代(1477〜1526)に創建されたといわれています。 勧会門は戦災で焼失したが、1974年に復元されました。 この城壁は、石を四角に切って、積み上げているようです。 階段のスロープが緩やかです。
勧会門の入り口左右を 一対のシーサーが守る。 勧会門前から久慶門を望む。 石段が続く。
首里城第2の門で、別名を「ひかわ御門うじょう」ともいいます。 1470年頃の創建といわれています。 外壁と内壁で二重に守ります。 龍の口から湧き水が出ていることから、「龍樋」と名付けられました。
めでたい泉という名の、 「瑞泉門ずいせんもん」です。 入り口「勧会門」を振り返る。 王宮の飲料水「龍樋」りゅうひ
「瑞泉門」の名称は、門前、右下にある「龍樋(りゅうひ)」に由来します。 構造としては、途切れた石垣に桁を架した木造櫓門です。 内側から見ると木造が良く分かります。 漏刻門は、門の上の櫓に水槽を設置し、水が漏れる量で時間を計ったといわれています。
瑞泉はめでたい水龍樋に由来。 「瑞泉門」です。 内側から観る「瑞泉門」です。 「漏刻門」は水が漏れる量で
漏刻門は、門の上の櫓に水槽を設置し、水が漏れる量で時間を計ったといわれています。 中央部の屋根を高くして、門を設けています。屋根は赤瓦葺の入母屋造りで、門の正面に向かって左側が民事・司法関係を取り扱った役所である大与座、右側が寺院や神社、宗廟祭典(祖先を祭る行事)をつかさどる役所、寺社座になっていました。 二つの門は、左が勧会門で、右が久慶門です。 日本の城と言うより、中国の城壁に近い感じがします。
時間を計ったといわれる。 第4の木造門、広福門は券売所 日影台から左の勧会門と 右の久慶門を見ます。
城壁の手前にある礼拝所が「首里森御嶽」です。「琉球開闢かいびゃく神話」によると、神が造られた聖地であるとされています。また、城内にはここを含めて「十嶽とたけ」と呼ばれる10ケ所の礼拝所があったといわれています。琉球最古の歌謡集「おもろさうし」にも首里森御嶽に関する詩歌が多数登場します。1997年12月に復元されました。 正殿、南殿・番所、北殿、奉神門に囲まれた広場を御庭(うなー)といいます。 御庭は首里城の中心的な空間であり、冊封(さっぽう)の式典など様々な儀式を行うメイン広場としてつかわれました。 首里城正殿は琉球王国最大の建造物で、「国殿」「百浦添御殿」ともよばれ、文宇通り全琉球国百の浦々を支配する象徴として最も重要な建物でした。正殿を二層屋根とするのは北京故宮の太和殿やソウルの景福宮の勤政殿と同じで、いわば中国式宮殿の最も格式高い形式です。
場内の祈りの場「首里森御嶽」 正殿前広場、御庭(うなー)。 首里城正殿、龍の住む城。 「国殿」ともよばれ、
この御庭のような空間は、紫禁城に代表される中国宮殿の様式をほぼ踏襲しており、琉球と中国の交流の深さを物語っています。 御庭には奉神門と正殿をつなぐ浮道を中心に、茶色の磚瓦を縞状に敷きつめてあります。この縞は、行事の際、諸官の配列や道具類の設置場所が分がるようになっていたようです。中央の浮道は神聖な道として位置付けられていました。 創建年は南殿・番所ともに薩摩侵入(1609年)後の天啓年間(1621〜27年)とされています。 番所は首里城へ登城してきた人々の取次を行いました。南殿は年間を通して行催事等が行われ、薩摩藩の接待所としても用いられていました。
琉球王国最大の木造建築物。 行催事を行う二階建ての南殿。 外装は塗装せず、白木のまま。 登城した人の取次を行う番所。
かつては「西御殿」、「議政殿」とよばれていた首里城北殿は、現在の議事堂にあたる場所で、通常は王府の行政施設として機能し、表一五人衆や筆者、里之子とよばれる役人などが働いていました。 摂政三司官等の重臣が王府の重要案件等を審議する場所でもありました。冊封使が首里城へ訪れた時には、この北殿で歓待しました。 台座からの高さ、4.1m。台座は琉球石灰岩です。 龍の材質は、与那国島産の、細粒砂岩です。
北殿は議事堂にあたる行政施設 重臣が重要案件を審議する場所 正殿大龍柱(吽形うんぎょう)、 右(阿形あぎょう)。4.1m
記録によると正殿は先の大戦を含めて過去4回の焼失再建を繰り返しました。 今回の復元は1712年頃に建立され、数度の大修理を重ねながらも戦前まで存在した建物の再現を目指してすすめられました。 龍は国王の象徴で、城内にいくつも見られます。 殆どの龍が、吽形と阿形の対になっています。
立体的に彫られた獅子と、 金龍の彫刻がみごと。 国王象徴の龍は33体棲んでおり 殆どが吽形と阿形の一対。
唐破風の妻壁には、中央に火焔宝珠と大蟇股(だいかえるまた)が描かれており、 両脇には、金龍と瑞雲の彫刻が、施されています。 「下之御庭しちゃぬーなー」とは沖縄的表現で「下の庭」という意味です。 下之御庭は首里城正殿のある「御庭」へ入る前の広場で、正殿前で行われる様々な儀式の控えの場として使われました。
唐破風妻飾り、両脇に、 金龍と瑞雲の彫刻。 広福門手前の下之御庭で 伝統の琉球舞踊が上演される。
沖縄は台風が多いので、瓦が風に飛ばされないように漆喰で瓦の隙間を埋めて風が入らないようにしています。 ガジュマロは南国特有の木で、アンコールワットでは、巨大な根となってを遺跡を覆っています。 冊封使の進言によって、1427年に造成された、人工池「龍潭」(りゅうたん)です。 朝鮮王から贈られた、方冊蔵経を納めるために造られた、弁財天堂と、円鑑池(えんかんち)です。
台風を防ぐ赤い屋根と白い漆喰 ガジュマロの木 1427年造成人工池「龍潭」 弁財天堂と円鑑池です。
首里城外郭の北側に位置しており、俗に「ほこり御門」と呼ばれ、通用門として使われました。 門の造りは中央が石造アーチ門で、その上に木造の櫓があります。この門の両脇には石遣の樋があり、あふれ出た龍樋の水が地下の排水溝を通ってここから外へ流れていきます。戦災で焼失しましたが、1983年に復元されました。 城壁は、まだ工事中でした。 定番物の、記念碑です。
久慶門は主に女性が使用した と言われる北側の通用門。 連なる城壁 首里城址

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